実は、私の場合は留学先の選択の余地がありませんでした。

2016年8月に私は妻とオーストラリアのアーミデールという田舎町に旅行しました。妻が仕事の関係でアーミデールに行くのについてきた格好でした。

彼女が大学で仕事の打ち合わせをしている間、私は大学の中を散策していました。すると語学学校があることに気が付き、以前から「英語を話せたら退職してもいろんな可能性が広がるだろう」と考えていた事もありのぞいてみました。

つたない英語で話すうちに、ずるずると奥に引き込まれ校長先生の前に座らされ、話をする羽目になりました。簡単な英語会話だったと思いましたが、うまく話せなかったことを覚えています。

帰りがけに、校長先生から「来年の4月から入学しなさい」と言われてしまいました。定年まであと2年を残していましたので、残念ながら入学はできなかったのですが、将来、条件がそろえばここで英語を学ぶことも面白いかもしれないと考える切っ掛けになりました。

最終的にこのUniversity of New England(UNE)に決めたのは、妻が年に数回この大学を訪問するため、せっかくならここに留学しようかくらいの気持ちで決めました。

しかし、来てみると町の大きさもほどほどで(人口約2万人)、シドニーのような現代的な街ではありませんが落ち着いた大学町の雰囲気がありました。

大学町らしく、いたって健全で事件や事故もなく暮らしやすい町でした。きれいな花の咲く木々や緑が美しく、オーストラリアのシニアの人たちが老後移住して暮らしたいと考える町と聞きます。

おすすめポイントは、とにかく落ち着いて勉強や生活ができることです。毎日町に買い物に行きますが、美意識の疎い私でも町がきれいだと思いますし、すれ違う人も気軽に挨拶をしてくれます。

時には「どこから来たの」とか話しかけられたりもします。シドニーやメルボルンに比べると刺激という点では今一つでしょうか、逆にどんなレストランでもバーでも気軽に入ることができ、丁寧に対応してもらえるという利点もあります。英語を学ぶ、生活をするために第一歩を始めるには最適な場所だと考えています。

いざ出発。帰国後に分かった便利な持ち物

スーパーマーケット

おそらく、ネット上や雑誌などで必需品についてはかなり詳しく説明されているようですので、私の視点で数点あげてみます。

まずは、「スキンケアー用品」とか「日焼け止めクリーム(強力なもの)」、「サングラス」です。

ここは標高1000メートルあり昼と夜の温度の差が大きい町です。スコールのような雨もありますが、基本的には乾燥していますし、直射日光が強いです。男性の私でも気が付くのですから女性の方の場合はなおさらでしょう。

「炊飯器」はひょっとすると必需品かもしれません。お米は日本とは違うだろうと最初から思っていました、それでも炊飯器はこちらで売っているものはうまく炊けないと聞きます。お米を食べるとお考えの方は何とか持ち込んだほうが良いと思います。

あとは「ダニシート」でしょうか。これは土足で部屋に入るとかの生活習慣の違いなのでしょうか。私の妻にとっては絶対の必需品だそうです。

次に「気に入った文房具類」。文房具は日本製が一番だと思います。もちろん、こちらでも手に入ります。こちらで購入したステイプラやセロテープをブツブツと文句を言いながら使っています(笑)。

最後に、私の場合に限りますが「ほうじ茶」です。梅干しとか佃煮とかよく聞きますが、ほうじ茶は私の精神安定のためです。

周りはすべて英語で、うまく通じない、何を言われているか理解できない中で一人暮らしているため、うまくいかないことが多く、振り回されたり、悩んだりすることがありました。

その時に一杯のお茶に救われたことがあります。「Green Tea」もこちらでも手に入りますが、少し味が違うように感じます。

洋服とか食料品、日用品などはKマートとかウルワース、コールズという大型スーパーで、たいがいのものは手に入れることができます。

しかも安いと思います。アジアンコーナーもあり、調味料、お醤油、カレー粉、ワサビなども手に入ります。ただ、アーミデールは海まで数百キロの距離があるため「魚介類」が冷凍でないと手に入りません。週に1回車で業者が販売に来ますが、日本のように新鮮で豊富な魚介類は期待できません。

授業開始、英語レッスンや学校スタッフ、設備について

講義風景

授業が始まったのは2018年の10月でした。6か月間通いました。

ここでは4段階のクラスがあり、私は一番下のクラスからスタートしました。一番下のクラスは2クラスありました。

クラスは生徒が11人で、日本人は私と若い女性が2人、中国の男女が5人、サウジアラビアの男女が3人という構成でした。

学校全体がほとんど20代の学生で、その中に60代の私が紛れ込んでいる感じです。授業は、リーディング、リスニング、スピーキング、ライティング、文法等に分かれていて、週に1回オーストラリアの文化や新聞のニュースについての講義があります。

1日3回(3時限)の授業の区切りがあり、90分授業です。クラスは担任制で、授業は担任が中心となり行います。

実は、英語を学ぶことについて少し自信はあったのですが、その自信はすぐに砕かれてしまいました。授業の進み方がわからない最初の洗礼です。

そもそも「教科書の〇〇ページの上から〇行目から始めます」の様な先生の言葉が聞き取れないのです。場所が分かってしまえば辞書を引き引き何とか理解できるのですが、先生が何を話しているのか分からないという状況でした。

クラスの日本の学生に助けてもらいながら授業を受けるという情けないスタートとなってしまいました。後で分かったのですが、実は予定表を渡されていて、その通りに授業が進んでいたのです。

なにせ英語で書かれた書類が多く読んでいなかったのが原因だったのです。日本の学校の手取り足取り式の教え方に慣れていたためです。

もちろん、先生は「その内容は渡し他プリントに書いてあります」という対応でした。その後も、授業についていくのがやっとで、毎日出される宿題に追われる毎日でした。

自分なりに頑張りましたが、どこか空回りしている感じでした。「何とかなる」式で考えでは、なんともなりませんでした。

周りを見れば、日本の2人の学生はクラスのトップであり、私はクラスの中でも後塵を拝していました(笑)。英語は意気込みだけで学べるものではなく総合力であると今更ながら気付かされた次第です。

実は、私の目的は英語を学び、海外での旅行や生活を楽しみたいというものでしたので、進学用の授業とは違和感があったことも事実です。

もちろん無駄ではないのですが。3か月で一つの単位が終了し最後に進級テストがあります。6か月間通った私は2回受けました。一応2回とも合格しました(忖度もあったとは思います(笑)。

ただ、合格をもらえない生徒も数人いることに少々驚きました。6か月終了後、延長して次の3つ目のクラスへ進まないかお誘いもありましたがお断りいたしました。進学が目的ではなかったからです。

2番目のクラスの最後に、自分で題材を選んで、パワーポイント等を使ってプレゼンをしました。私は「School of the Air」というオーストラリア独特の教育制度をテーマにして発表しました。

ほんの7分ぐらいの発表でしたが、資料を調べたりする作業は楽しいものでした。当日はみんなを驚かせようとスーツにネクタイで登校し発表したことも良い思い出です。

教室はUNEの外れにあり、建物も教室もこじんまりとした感じです。1時限と2時限の間に、外でお茶とクッキーがでて生徒同士でくつろいで話をしたりします。

上級クラスの生徒たちとも話ができます。日本の学生と話すことはもちろんですが、中国の学生やサウジアラビアの学生とも話をしました。

また、語学学校独自にクリスマスのピザパーティもあります。大学のウエルカムパーティーではバーベキューでの歓迎を受けました。

私が選んだ滞在方法と参加したアクティビティ

滞在先アパートについて

大概のクラスメイトは大学の寮に住んでいましたが、私は海外での生活が目的の一つでしたので、大学で紹介してもらったアパートを借りていました。

部屋は日本流にいうと1DKで、レンジ、冷蔵庫、洗濯機、鍋はもちろん、ベッド、シャワーもついていました。ここでほとんど自炊の生活を行いました。

棟続きに大家さんがいて、週末にはBBQパーティーに招待していただいたりしました。ただ、当初から「こちらの方と同様の生活をしてみたい」との希望があり、1か月後に自分で探したアパートに引っ越しました。

今から考えると、全く英語も自由にならず、外国でどのようにアパートを借りるかも分からなかった私が何とか契約までたどり着いたことは奇跡(?)としか思えません。

また、アパートに電気を通してもらうために電気会社と電話で契約をしたり、銀行でカードを作ることも難しかったことの一つでした。おそらくは多くの方の協力と、アーミデールというのんびりした町だからできたのだと今になれば思います。

町に住んでいましたので、毎日学校までバスで通学し、買い物もしてほぼ自炊という生活でした。

生活は単調でしたが、日本の方やオーストラリアの方と知り合いになり、週末にバーに飲みに行くとか、町の朝市をのぞいたり、教会の日曜礼拝に参加してみたりしました。特に大きな催しもない田舎町ですが、年に一度の留学生のパレードがありクラスの日本人の学生と一緒に参加しました。

私の場合はどちらかといえば生活に密着したアクティビティーが中心でした。

留学の時期ではありませんが、現在私は先ほど記述した教会系のリサイクルショップで火曜日と金曜日の2日間ボランティアで仕事をしています。

友人の紹介でしたが、ほとんど飛び込みで自分からお願いした感じでした。町の方が不要になった衣類や雑貨、ベッドや文具など様々なものを寄付します。

もちろんただです。それを仕分けしてお店に出し販売しています。したがって時には信じられないほど安いものもあります。

また、今の時期だとブッシュファイヤーで被災した方々の支援品をスタッフで作り、送っています。私の仕事は呆然とするほど大量に持ち込まれた衣類やシーツ、タオル等を、店に出すもの、クリーニングに出すもの、廃棄するものなどに分別することです。

英語力の不足や、こちらの方々の好み、文化等を知らないため、カウンターの仕事や専門的なものの分別は難しく、衣類の分別にしてもらった事情があります。ボランティアであても、仕事をすることは生活に張りとリズムを生み、頼りにされている(?)ことも誇らしい感じがしています。

留学期間中の生活費用、私の場合はこのくらいかかりました

現地街並み

生活の費用はおおよそ以下の通りです。

アパートの家賃は最初の大家さんと棟続きのものが週200ドルでした。この中には水道代は含まれますが、電気代は含まれていません。

電気代は高いと聞いていたので注意して使っていました。1カ月80ドル位でした。自分で借りたアパートの方は週240ドルです。

電気使用のレンジは備え付けられていますが、冷蔵庫、電子レンジ、ベッド、毛布やシーツ等、電気ストーブ、扇風機また鍋やフライパンなどは自分でそろえなくてはなりません。

こちらも水道代は含まれていて、電気代は1か月やはり80ドル位です。アーミデールのアパートは使用するエネルギーがほぼすべて電気です、ガスはありません。日本より電気代が高く、使用料は常に気になるところです。

食事はほとんど自炊ですが、食費は週200ドル位でなんとかなります。クラスの日本人女性はおそらく週150ドルかからず生活していたようです。

洋服や食器小物等は大型スーパーのKマートやBIG Wでほぼそろいます。日本に比較して安いと思います。ただ、デザインや色はあまり面白みがありません。

もちろん、専門店もありますがこちらは値段も高くなります。もしよろしければ教会運営のリサイクルショップを覗いてみてください。セコハンであることが気にならなければ面白いと思います。

この小さな町に3件ものお店があります。それぞれ特徴があり見て回るのも面白いと思います。気に入ったものが見つかれば格安で手に入れることができます。

私はジーンズやトレーナーなどを5ドル(日本円で400円くらい)、DVDプレーヤーとかパソコンのプリンターを10ドルで購入しました。

オーストラリア留学体験談まとめ

学校風景

私の場合は語学留学半分、生活留学(?)半分でしたので、学校にはご迷惑をかけたのではないかと考えています。

定年を迎えて孫の顔を見ながら静かに暮らす楽しみもあるでしょうが、自分でまだその境地に立てないと感じていました。

2014年の教員時代ですが、私の隣の席にアメリカから女性のアシスタントティーチャー来ました。片言の英語で話しかけるうちに、なんの保証もない世界に一人で飛び込んでくる勇気や好奇心に感心し、心意気を感じました。

私の留学への思いは彼女と出会ったことから始まりました。私自身も同じ年頃はそのような好奇心のままがむしゃらに生きていた時代もあったことを思い出しました。

私も彼女のように国や言葉の垣根を越えて自分を広げていきたいと思ったのが海外で生活をしようと考えた始まりです。退職まで積み重ねてきた経験は次の自分の可能性を広げるためのものではないかと考えています。

6か月の留学は私にとってはとても良い経験でした。現在私は留学先のアーミデールに引き続き住んでいます。

ビザの関係で3か月に1度はオーストラリア国外に出国しないといけません、また残念ながらお金を得る仕事はできません。しかし、この町での生活に少しづつ慣れ、習慣や風習、文化や人の考え方などを語学とともに理解していくことを楽しんでいます。

もっともっと地元の生活に溶け込んでいきたいと考えています。現在行っているボランティアもその一環です。また、大学町であることや移住して来たシニアの方たちが多い町で、いわゆる知識人がたくさんいる町でもあります。

その人たちが作るシニアの方のための学校があります。U3Aといいます(University of the Third Age)。その道に詳しい方達が、その知識をシニア対象に教えています。内容は歴史、写真、山歩き、ヨガ、ゲーム、編み物、音楽、チェス、語学、クリケットなど多彩です。ここに週1回通い、2つの講座を受講しています。

将来は海外を回ってみたいと考えています。単に名所を見て回るのではなく、そこに住む方々の生活も理解したいと思います。そのためにはまだまだ英語力が不足しています。

シニアの方々へ

アクティビティ

日本のシニアの方もまだまだ引っ込んでしまうのは早くないでしょうか?

長い間生きてきて身に着けたものは、そのままでは海外では通用しないことも多いです。日本的な感覚も通用しないようです。

しかしそれでも身に着けてきたものは間違いではなかったと感じています。通用しないのは、表現方法や順番が違っていたりするからかもしれません。

お互いの根底に流れている人と人が生きていくときに必要な知恵や礼儀や思いやりなどは、日本も外国も違いはないと感じています。ある意味はこちら側に壁の様なものがあり、そのために通用しなかったり意思が伝わらなかったりするのではないかと今は思っています。

最近の日本の若者は我々シニアに比較して、その壁がないのかもしれません。だから海外に平気で出ていける若者も多いのではと思います。

しかし、我々だって、壁をなくすことはできなくても(なくす必要はないと思いますが)、壁の存在やその壁が自分にどのように作用するかを理解すればよいだけのことではないかと思います。この町で、その事を確かめられたことが私の留学の成果ではないかと考えています。